Author:selectsymphony
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以下、Amazonから引用
図太く剛直で、ぎっしりと中身の詰まった、含蓄の濃い演奏である。
従来、アバドのマーラーは、(マーラー・ファンには誰でも身に覚えのあることだが)、今ひとつインパクトが食い足りなく感じられることもなくはなかった。ここだ!と待ち構えていると、あっさり通り過ぎるような、丸みを帯びたアバドの大人のマーラーは、例えば世界の苦悩を1人で背負い込むバーンスタインのような忘我の極致には至らないし、クレンペラーの巨大性やバルビローリの熱情もないし、ラトルの閃きもない。
しかし、この第7番は違う。とにかく「ぎっしり」という言葉がぴったりくる、実に響きの濃い、攻撃型の演奏なのである。ここではベルリン・フィルの分厚い弦、安定した金管も、抜群の威力を発揮しており、腹にずしりとこたえる重量感にはたまらないものがある。
もともと第7番は、噛めば噛むほど旨味の出る、内へ内へと向かう響きの屈折感ではマーラーの中でも最高に陶酔的感覚をもつ作品である。アバドは小手先の飛び道具やテンポの極端な動かしに走らず、あくまで誠実で骨太な音楽の進め方を積み重ねていく。その結果、特に第1楽章や第5楽章では、必ず楽章の後半に向かってじりじりと高揚していき、圧倒的な興奮にいつの間にか巻き込まれてしまう。
ともすれば病的な狂気や神経質な痙攣(けいれん)、世紀末の退廃と結び付けて考えられやすいマーラーの交響曲だが、アバドのマーラーを聴いていると、そんな単純なものではないのではと思えてくる。表面的効果には走らなくとも、人を必ず「考えさせる」、アバドにはそんなところがある。(林田直樹)








以下、Amazonから引用
「おお、私の消え去った青春の日々、おお、私の消え去った愛よ」とスケッチに記されていたという第1楽章、最後は「死に絶えるように」と指定されて終わる第4楽章 ―― 。マーラーの死の1年前、1910年に完成されたこの交響曲は、ヨーロッパが生み出したあらゆる交響曲のなかでも、最も終末思想と関連付けられて考えられ、また日本のマーラーファンにもこよなく愛されている最高傑作である。これを演奏するということは、指揮者もオーケストラも、その芸術人生を最大限に賭けているとみていいくらいの重い作品である。また、これはベルリン・フィルにとっても因縁の曲である。バルビローリ、バーンスタイン、カラヤン…。残されている録音は、それぞれがまったく「特別」な演奏として、いわく付きのエピソードとともに語り継がれてきたものばかりである。そして今回、アバドが1999年9月にライヴ・レコーディングしてようやく発売された新盤が、新たにその列に加わった。
「第7」同様、「第9」も、アバドの演奏は非常に骨太であり、いつもながらベルリン・フィルの安定感ある威力はすごい。しかし、それにも増して、静的な部分でのゆったりと歌うような、音楽の大きく自然な呼吸の流れが何と言っても素晴らしい。たとえば第1楽章冒頭から主題提示の雄大な歩み、そして展開部に入ってからの死を予告するような不気味なティンパニやハープが執拗に続ける4つの音の変容の味わい深さは、いままでの歴史的名演奏をもしのぐ充実ぶりだ。
マーラーが楽譜に記した、死を前にしたあらゆる想念 ―― 苦痛、痙攣、怒り、涙、惜別、詠嘆、少しばかりの幸福、誇り、諦念 ―― に、アバドは決して「溺れる」ことはない。時折、管の表情のグロテスクさや、弦の思わぬ濃密なポルタメントを見せたりはするが、絶望の淵に沈みこみはしない。かといって冷たく突き放した分析性ではなく、整ったフォルムの中には、やはり一筋縄ではいかない、いろいろな熱い思いがぎっしりと詰まっている。やはり、アバドならではの、聴き手に「考え」させてくれる演奏である。(林田直樹)





















